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人はなぜ秘密に惹かれるのか:「フーコーの振り子」

               

 今月ずっと、前々から気になっていたウンベルト・エーコの「フーコーの振り子」を読んでいた。 読む前から覚悟してはいたが、馴染みのないオカルトや神秘主義、ヨーロッパの歴史的な議論の奔流で、読み進めるのがかなりきつい小説だったが、素晴らしい小説だった。 というか、今までの人生で読んだ小説の中でもトップクラスの傑作だと断言できる。

Part 1(ネタバレなし

 語り手であるカゾボンが、パリ国立工芸院にあるフーコーの振り子を前にしているシーンから物語は始まる。どうやらその日の真夜中、そこで世界制覇の「計画」に関する重要な何かが起こるらしい….。カゾボンの友人であるヤコポ・ベルボは「計画」を知ったために、何かの事件に巻き込まれているようだ….。そして事の発端である、テンプル騎士団に関する原稿をベルボの勤める出版社に持ち込んだ人物は行方不明になってしまった。もしかしたら彼は殺されたのかもしれない….。真夜中に備え、カゾボンは工芸院の展示物の中に隠れ、そこに至るまでの経緯を回想し始める。
 ここから続く回想には、カバラ錬金術といったオカルトに始まり、テンプル騎士団や薔薇十字団をはじめとする数々の秘密結社、そして陰謀論についての議論がこれでもかと言うほどのディテールとボリュームで詰め込まれている。しかもそれが、物語の 4/5 くらいまで(つまり話のほとんどの部分!)続く。そしてようやく最後の 1/5 くらいまで来たとき、回想シーンが冒頭の時点に追いつき、一体何が起こっているのかが見えてくる...。
 こう紹介されると、この作品がオカルトや陰謀論に傾倒した作品のように見えるかもしれないが、実際はその逆だ。 なぜ人が荒唐無稽なオカルトや陰謀論、ひいては宗教や神の存在を信じてしまうのかを、登場人物たちの対話と心情の変遷を通して描いた作品だ。カゾボンやベルボも、最初は理性的かつ批判的だった。 ところが、いくつかの強烈な体験や人生に対するある種のメランコリーによって、彼らは「秘密」の網に捕らわれてしまう。 いや、改めて振り返ると、完全には捕らわれてはいなかった。けれども網の中に深く入り込み過ぎたために、そこに棲む蜘蛛に噛まれることになってしまう...(※1)。
 色々な意味で複雑な小説で、まだ一度読んだだけなので、まだまだ読み解く余地が間違いなくあると思う。今後再読した時には、いまは気が付いていない新たな発見ができるだろうと思う。だからいつかまた再読するのが楽しみだ。そう心から思える小説だった。

(※1) ネタバレを避けるため、比喩的表現を使用。

           

以下ネタバレあり

Part 2(ネタバレあり

 人はなぜ秘密に惹かれるのか。ここで言う「秘密」とは、表面上の世界から隠されたもの、裏にある秘密。陰謀かもしれないし、神かもしれない。 「フーコーの振り子」で提示されるその答えは、シナーキーについてのリアの発言1に集約されている。 つまり、人は何事にも理由を求め、「理由がない」という「理由」に納得できないからだ。 特に、不可解なことや不満などのネガティブな感情を抱く出来事に対しては特にそう感じるものだ。
 ベルボの場合、人生において常に、作中でメランコリーとも表現されているある不安感を感じ続けていたのだろうと思う。 その不安感は、傍観者で居続けてきたこと、チェチリアやロレンツァとの関係、トランペットを吹けなかったこと、あるいはもっと小さかったころに、 変に取り繕ったばかりにトランペットの玩具を買ってもらえなかったことに起因するのだろう。 たぶんそれは「本当に欲しいものを手に入れられない」もどかしさのようなものだったではないだろうか。 ベルボが自分達の創り出した「計画」にのめり込んだ理由の一つは、 「計画」を信じる(ふりをする)ことで、世界の秘密に触れている気分、「奥義を伝授された気分」を味わうことができたからだろう。 ベルボの場合には、不安感・不満感から逃れる慰め2、あるいは現実逃避として「計画」を利用していたのであって、 世の「猟奇魔」のように原因を陰謀に転嫁3していたわけではないが、それでも同じような罠には嵌っていたと言えるだろう。
 カゾボンの場合は、リアという存在のおかげで、時に揺らぐことはあっても最後まで一番理性的な状態を保つことができていたが、 それでも「猟奇魔」の思考に染まりかけたのはおそらく「実体験」の影響が大きいのだろう。 ブラジルでの体験、特にウンバンダの儀式でのアンパーロの「憑依」、そしてピエモンテの城での演出やドルイドの儀式。 加えて、大佐の失踪に始まり、ピカトリスクという謎の組織についてのベルボの手紙やデ・アンジェリス警部の言及など、 「隠された繋がり」を思わせる出来事への遭遇。これらがカゾボンの思考に大きく影響したのだと思う。 これらは実際の体験、つまり五感による肉体的刺激という強烈なものだからだ。 本人の理性がどう判断するかはともかく、秘儀の場に居合わせれば異様な雰囲気を否が応でも感じてしまうものだし、不可解な繋がりを発見すれば、不思議さを感じてしまう、ということだ。 さらに、人の思考方法は習慣や文化的環境によって歪曲される。その後「ヘルメス企画」に集中したことで、隠された意味を読み取ろうとする思考、根拠のない類推によって物事を紐づける思考に拍車がかかってしまったのだろう。そんなことで人の思考過程が変わるのか、と思う人もいるかもしれない。だが読者である自分ですら、この小説を読むことで「猟奇魔」の類推に慣れてしまっていた。それに気が付いたのは、リアの「種明かし」の場面、インゴルフのメッセージの正しい解読を見た時だった。その場面までに詳細に描かれていた「猟奇魔」の類推を追ってきた自分には、その正しい解読にすら、隠された裏の意味があるように見えてしまったのだ。
 物語のクライマックス、マルクートにおいて、カゾボンは諦念とも言える心境でただTRESの追手を待つ。ベルボもカゾボンも、不満感や不可解さのスケープゴートとして「計画」を利用した。でもそれは、人間の生来の動物的本能なのだ。だからこれからも、陰謀論や神の概念が無くなることはないだろう。この物語が伝えているのは、たぶんそんなことなのだと思う。


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